坂田藤十郎 (初代) (Tojuro SAKATA (the first))

初代 坂田 藤十郎(しょだい さかた とうじゅうろう、正保4年(1647年) - 宝永6年11月1日 (旧暦)(1709年12月1日))は、江戸時代の歌舞伎役者。
俳号は冬貞、車漣。
紋は丸に外丸。
元禄の時代を代表する名優で、関西歌舞伎の始祖。
「役者道の開山」「希代の名人」と呼ばれた。

来歴

京都の座本だった坂田市左衛門(藤右衛門とも)の子。
延宝4(1676年)年11月京都万太夫座で初舞台。
延宝6年(1678年)、『夕霧名残の正月』で伊左衛門を演じ、人気を得た。
この役は生涯に18回演じるほどの当たり役となり「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」と謳われた。
『廓文章』など、その後の歌舞伎狂言に大きな影響を与えた。
その後、京、大阪で活躍近松門左衛門と提携し『傾城仏の原』・『けいせい壬生大念仏』・『仏母摩耶山開帳』などの近松の作品を多く上演した。
遊里を舞台とし恋愛をテーマとする傾城買い狂言を確立。
やつし事、濡れ事、口説事などの役によって地位を固めた。
当時の評判記には「難波津のさくや此花の都とにて傾城買の名人」「舞台にによつと出給ふより、やあ太夫さまお出じゃったと、見物のぐんじゅどよめく有さま、一世や二世ではござるまい。」とその人気振りが書かれている。

元禄8年(1695年)には都万太夫座座本にもなった。
宝永5(1708年)年10月京都亀屋座の『夕霧』を最後に舞台活動から去り翌年に死去。

芸風

和事芸の創始者で、同時期に荒事芸を創始した市川團十郎 (初代)と比較される。
金子吉左衛門著の芸談集『耳塵集』によれば、藤十郎の芸はリアルさを追及したものである。
「誉められむと思はば、見物を忘れ、狂言は真のやうに満足に致したるがよし。」という藤十郎自身の言葉がある。
ただし、徹底的なリアルさを求めるものでなく、見た目重視のところもあった。
「夕霧」の伊左衛門が舞台で履物を脱ぐとき、「もし、伊左衛門の足が不恰好に大きかったら客が失望する。」と言って裏方に小さめのサイズの履物を用意させた。

時代物や舞踊は不得手であった。
『松風村雨束帯鑑』の在原行平を演じたが不評だった。
行平が髪結いにやつしている場面だけが好評だった。
また、怨霊物では、踊らずにひたす手を合わせて逃げ回る演技がよかったという。
そのかわり話術が巧みで女性を口説くときの場面は抜群であった。

『傾城仏の原』で、梅永文蔵を演じた藤十郎が恋人逢州の心底をたしかめるべく、わざと世間話をする場面で、あまりの冗長さに客席から苦情が出た。
台詞を短くしようという忠告に、藤十郎はもう一日だけ同じやり方にしてくれをと頼み込んだ。
昨日よりもスローペースで世間話をすると好評であった。
「昨日は、見物を笑わせる所だと思って演じた。
それでいけなかった。
あの場面は、逢州の心地を聞こうとしてわざと暇取らせているわけだから、そのつもりですればいいのだ。
今日は長くやっても、こっちの気持ちが昨日とちがっていた。
だから、よかったのだ。」
と藤十郎は成功の秘訣を語っている。

芸に対しても真摯な姿勢を崩さなかった。

後輩の役者が、「先日あなたの通りに演じたら好評でした。」と礼を述べた。
藤十郎は、誉めずに「私のままに演じたら、生涯わたしを越えられませんよ。しっかりおやりなさい。」と忠告した。

その他

坂田藤十郎 (2代目)は初代の弟分。

菊池寛の戯曲に初代を主人公とした藤十郎の恋という作品がある。

1938年と1955年に長谷川一夫主演で映画化されている。

[English Translation]